Poul Rasmussen

イヴァルソンはスタンウェルの後ろ盾で1950年に独立し、華々しくデビューをします。
一方、スーアの店主テォフィル・スーアが他界するとラスムッセンが引継ぎます。
1953年に修理専門でホルベックを雇いますが、経営難で3年で解雇しています。
ホルベックは次のように述べています。
「パイプ作り方は教わらなかったが、ポールが作るのを見ていた」と
1957年に雇ったフォーマも「給料は安かった」と書いています。
しかし、最高の技術とカリスマを持っていた人物のようです。
1964年Bjorn Bengtssonは、パイプ作りを学ぶ場合、コペンハーゲンに2つの「スクール」があったと記載しています。
「スーア・スクール」は、月額は500クローネ(現在の20万円位)でした。
もう一つの「イヴァルソン・スクール」は、授業料が高く入門できなかったそうです。
1960~1962年 ダニッシュ・ブームのバブルは、黄金都市デトロイトの自動車富豪がシカゴのイワン・リースでパイプを買い漁った事が背景にあります。
わずか2年で、イヴァルソンとラスムッセンは、徒弟を安月給で雇う立場から授業料がを取れる立場に変わっていました。

煙道はかなり細いのですが、実際にタバコを詰めると程よい抵抗感でフローは良好です。
重量バランスが良く、またリップエンドが丁寧な作りで、パイプの咥えやすさの重要性をあらためて認識します。
たばこの吸い味は濃く出ます。
ダブリンシェイプは後半の喫煙が難しいですが、ジュースが出にくく容易に吸えます。
ボウル前方のタバコが燃やすいので、手前側を少し強めに詰めています。

<ポール・スムルッセン(1921-1967)とスーアの歴史>
19XX年 テォフィル・スーア(Teofil Suhr)がコペンハーゲンのビジネス街にパイプ店を開く
19XX年 ブラクナー(Brakner:Peter Micklson)を雇う
1946年 保険の外交員だったイヴァルソンがスーアの工房でパイプ修理を始める。
194x年 ラスムッセンがスーアで働き始める。
1950年 スタンウェルの後ろ盾でイヴァルソンがストローエ通りに工房を開き独立する。
195x年 スーア氏が他界後、ラスムッセンが工房を引継ぐ。ブラクナーは独立する。
1953年 ホルベックがスーア働き始める(修理専門)
1955年 シカゴのイワンリース店がダニッシュを宣伝し、アメリカでダニッシュブームがおきる。
1956年 経営が厳しくホルベックを解雇する。→ ダンが雇う。
1957年 フォーマー(Former:H・J・ニールセン)がスーアの装飾を担当した事で弟子入りする。
スヴェン・ヌードセン(兄)が弟子入り。
1959年 スヴェン・ヌードセン兄が独立する(弟のティディは従軍中で1970年に合流)
1960年 ラムルッセン氏は、デンマークで臨床3例目の人工心臓弁の手術を受ける
1961年 ラーセン工房の輸出カタログにラムルッセンのパイプを掲載し大人気となる。
1963年 S.バングに紹介し、若手のフォーマーをラールセンに移籍する。
アンネ・ユリエ(23才)と結婚する。
1965年 息子のバーナード・ユリエが生まれる。
1966年 コノウィッチ親子(エミールとイエス)とビョルンが弟子入り。
1967年 10月ラスムッセンは46歳で心筋梗塞により他界する。
工房はエミール・コノウィッチが引継ぐ。
ラスムッセン嫁のアンネ・ユリエは、フォーマに弟子入りする。
1968年 イエス・コノウィッチがイヴァルソンに弟子入りする。
1970年 コノウィッチ親子は独立して工房を開く。(スーア閉店?)
1970年末 ダニッシュブームが終わる。

E・コノウィッチ、P・ラスムッセン、S・バングとダニッシュを代表するパイプを入手しました。
見た目に注意が行きがちですが、内部構造やリップの作りは、古い英国のパイプや近年の北米パイプ作家とは異なるアプローチがあります。
入手の難しいパイプですが、興味がはつきないものです。
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2018-12-20 ステムのシンボルマークの修理
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そこで100円ショップのグールガンで穴埋めを試しました。
表側も固まる前に余分な樹脂をティッシュでふき取り、プラモ用コンパウンドで研磨しました。
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