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2018/04/29

Poul Rasmussen

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ダニッシュブームの草分け、コペンハーゲンのスーア店二代目店長ポール・ラスムッセンのパイプです。
かなり使い込まれたパイプで、トレードマークのレッド&ホワイトマークは無くなっています。

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ポール・ラスムッセンは戦前プロのボクサーで、趣味は登山でした。
大戦後スーアパイプ店で親友イヴァルソン(10才年上)の弟子として働きます。

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イヴァルソンはスタンウェルの後ろ盾で1950年に独立し、華々しくデビューをします。
一方、スーアの店主テォフィル・スーアが他界するとラスムッセンが引継ぎます。
1953年に修理専門でホルベックを雇いますが、経営難で3年で解雇しています。
ホルベックは次のように述べています。
「パイプ作り方は教わらなかったが、ポールが作るのを見ていた」と
1957年に雇ったフォーマも「給料は安かった」と書いています。
しかし、最高の技術とカリスマを持っていた人物のようです。

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ラスムッセンは30代で心臓病を患い、1960年のデンマークで3例目の人工心臓弁の手術を受けます。
若い頃のボクシングと登山で心肺能力が高かった事もあったと思います。

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手術の翌年、1961年にラールセンが北米輸出向けに作成したダニッシュパイプ・カタログで反響を得ます。
全24ページ中1/3の8ページにわたりラスムッセンのシェイプが記載されています。
 
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1964年Bjorn Bengtssonは、パイプ作りを学ぶ場合、コペンハーゲンに2つの「スクール」があったと記載しています。
「スーア・スクール」は、月額は500クローネ(現在の20万円位)でした。
もう一つの「イヴァルソン・スクール」は、授業料が高く入門できなかったそうです。

1960~1962年 ダニッシュ・ブームのバブルは、黄金都市デトロイトの自動車富豪がシカゴのイワン・リースでパイプを買い漁った事が背景にあります。
わずか2年で、イヴァルソンとラスムッセンは、徒弟を安月給で雇う立場から授業料がを取れる立場に変わっていました。

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 ・全長:150mm・ボウル高50mm
 ・外径:33mm・内径:xxmm・深さxxmm
 ・重量:30g

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 刻印は「34」「SUHR KOBENHAVN」「BRUYERE EXTRA」
 ダボ付近に「HAAND SKAAREN」

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デンマーク語で刻印されていますので、1957-1961年までに作成された可能が高そうですす。
後年は世界的なダニッシュブームで英語の刻印になるでしょう。

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外観:5
咥えやすさ:5
味:4(All)

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煙道はかなり細いのですが、実際にタバコを詰めると程よい抵抗感でフローは良好です。
重量バランスが良く、またリップエンドが丁寧な作りで、パイプの咥えやすさの重要性をあらためて認識します。
たばこの吸い味は濃く出ます。
ダブリンシェイプは後半の喫煙が難しいですが、ジュースが出にくく容易に吸えます。
ボウル前方のタバコが燃やすいので、手前側を少し強めに詰めています。

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<ポール・スムルッセン(1921-1967)とスーアの歴史>
  19XX年  テォフィル・スーア(Teofil Suhr)がコペンハーゲンのビジネス街にパイプ店を開く
  19XX年  ブラクナー(Brakner:Peter Micklson)を雇う
  1946年  保険の外交員だったイヴァルソンがスーアの工房でパイプ修理を始める。
  194x年  ラスムッセンがスーアで働き始める。
  1950年  スタンウェルの後ろ盾でイヴァルソンがストローエ通りに工房を開き独立する。
  195x年  スーア氏が他界後、ラスムッセンが工房を引継ぐ。ブラクナーは独立する。
  1953年  ホルベックがスーア働き始める(修理専門)
  1955年  シカゴのイワンリース店がダニッシュを宣伝し、アメリカでダニッシュブームがおきる。
  1956年  経営が厳しくホルベックを解雇する。→ ダンが雇う。
  1957年  フォーマー(Former:H・J・ニールセン)がスーアの装飾を担当した事で弟子入りする。
       スヴェン・ヌードセン(兄)が弟子入り。
  1959年  スヴェン・ヌードセン兄が独立する(弟のティディは従軍中で1970年に合流)
  1960年  ラムルッセン氏は、デンマークで臨床3例目の人工心臓弁の手術を受ける
  1961年  ラーセン工房の輸出カタログにラムルッセンのパイプを掲載し大人気となる。
  1963年  S.バングに紹介し、若手のフォーマーをラールセンに移籍する。
       アンネ・ユリエ(23才)と結婚する。
  1965年  息子のバーナード・ユリエが生まれる。
  1966年  コノウィッチ親子(エミールとイエス)とビョルンが弟子入り。
  1967年  10月ラスムッセンは46歳で心筋梗塞により他界する。
       工房はエミール・コノウィッチが引継ぐ。
       ラスムッセン嫁のアンネ・ユリエは、フォーマに弟子入りする。
  1968年  イエス・コノウィッチがイヴァルソンに弟子入りする。
  1970年  コノウィッチ親子は独立して工房を開く。(スーア閉店?)
  1970年末 ダニッシュブームが終わる。

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E・コノウィッチ、P・ラスムッセン、S・バングとダニッシュを代表するパイプを入手しました。
見た目に注意が行きがちですが、内部構造やリップの作りは、古い英国のパイプや近年の北米パイプ作家とは異なるアプローチがあります。
入手の難しいパイプですが、興味がはつきないものです。


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2018-12-20 ステムのシンボルマークの修理
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ポール・ラスムッセンとアンネ・ユリアは、ステムのレッド&ホワイトがトレードマークです。
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残念ながら、このパイプは欠落し穴があいていました。
そこで100円ショップのグールガンで穴埋めを試しました。
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油分があると粘着力が下がるのでアルコールで脱脂します。
モールを刺して、グールガンで樹脂を練りこみます。
硬化する前にモールで内側の部分の余分な樹脂を取ります。

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表側も固まる前に余分な樹脂をティッシュでふき取り、プラモ用コンパウンドで研磨しました。

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なかなか自然な感じで良い仕上がりです。
紫外線硬化樹脂やパテタイプ瞬間接着剤でも大丈夫だと思います。

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